夫の家のお墓に入りたくない妻の言い分
お墓にまつわる家族間のギクシャクもいろいろ問題になっています。
嫁ぎ先のお墓に入りたくないとか、本家のお墓に入りたいんだけど入れてもらえないとか、嫁ぎ先はこの宗旨だが嫁は違うので同じお墓に入れないとかというような例です。
そんな例を通して現代の家族関係の問題が見えてくるということもありますが、今は妻のほうを排除してお墓に入れないというヶIスはほとんどありません。
たいていは妻のほうから言い出しているようです。
-夫の家のお墓には入りたくない
-わたしはこの家とは宗旨が違うからお墓に入らない
というわけです。
わたしの知り合いに夫が仏教徒で妻がクリスチャンという夫婦がおり、だいぶ前に妻から、「あなたのお葬式をキリスト教式でやっていい?」と聞かれているというのです。
それでわたしが相談されたので、「いいと答えなさい。その代わり、きみのお葬式は仏教式でやるよと言ってやりなさい」とアドバイスしました。
最近は女性は、「自分はクリスチャンなんだから夫の葬式をキリスト教式でやりたい」というように、イニシアチブを取りたい意識が強いようです。
女性の権利意識が強まっているからなのでしょうが、わたしはおかしいと思います。
まずこの女性の場合なら、自分がクリスチャンなのにどうして仏教徒のところに嫁にきたのでしょうか。
初めから、「わたしは仏教徒とは結婚しません」となぜ言わないのでしょうか。
宗教なんかどうでもいいと思って嫁いできたとしたら、それはおかしい。
お金があるかどうか、容姿や学歴がどうかというようなことだけで判断して結婚したのだとしたら、それはエコノミック-アニマル、セックス-アニマルではないかと言われてもしかたがないのではないでしょうか。
わたしは宗教を大事にするという考えを持っていないのは問題だと思うし、宗派の違う人間と結婚するのも節操がない行為だと思います。
それからもうひとつ、
-夫婦別姓-
という運動があります。
あれは夫婦別姓といいますが、親子別姓だということに気づいているのでしょうか。
結局、親子が別の名前を名乗ろうという運動を展開しているのです。
つまり、親子の一体感を持ちたくないということにつながってしまうのですが、それを承知で行っているのでしょうか。
そのへんを疑問に思います。
儒教は夫婦別姓です。
だから中国は今でも夫婦別姓です。
たとえば、A家に嫁いできたお嫁さんは七十歳になっても八十歳になってもA家の人間ではないのです。
つまり、これは妻を排除するという儒教の考え方なんです。
夫婦別姓は女性の権利だといっているようですが、そういう方々はそのような経緯を知っておっしゃっているのでしょうか。
逆に、自分が嫁いだ家に夫の姉がいて、そのお嫁さんがあんなお姉さんといっしょのお墓には入りたくないとゴネたらどこに入るのでしょうか。
お姉さんのほうで拒むかもしれませんね。
実家はわたしのものだと思っているかもしれない。
もしそうであれば、お姉さんはお嫁さんに嫁入りの時、夫婦別姓を申し入れておかなければなりません。
おまえはこの家の人間ではないのだからお墓には入れないということをちゃんと言わないことには、中国式にはなれないわけです。
いずれにしても、どうして嫁いだ先のお墓には入りたくないとか、実家のほうに入りたいなどという気持ちになるのかわたしにはまったくわかりません。
それは結局、前近代的な意識そのままでお墓を大事にしているのと同じことではないでしょうか。
そのような主張は、お墓信仰の強い地方にはむしろ少なく、逆に都会の女権論者に多いようです。
つまるところ、今、夫やその家族といっしょにいたくないという気持ちの投影なのでしょうから、死んでからの問題にするのではなく、生きているうちに別れてしまえばいいということです。
家族葬・葬儀における出棺時の挨拶について
突然の不幸で出棺のあいさつをしなくてはならなくなったご遺族の方、下記サイトは出棺時の挨拶の例文が盛りだくさんで掲載されています。
喪主が妻の場合や、喪主が夫の場合など、ケースごとにありますので、是非参考にして下さい。
http://www.studentsforgavinnewsom.com/
仏壇が二つになると不幸になる?
お墓とともに、仏壇についても不安や疑問を持っている人が多いようです。
わたしのもとに、「家の中に仏壇が二つになると不幸になるといいますが、ほんとうですか」という質問の手紙が舞い込みました。
どういう意味なんだろうと思って読んでみると、このたびお母さんが亡くなったというのです。
お父さんはずっと前に死んでしまっていて、自分は嫁いでいる。
長男にあたる弟がいるのだが、その弟は新興宗教に入っているため、お母さんが持っていた仏壇を引き取れないと言っているらしいのです。
自分には自分の仏壇があるから、そんな邪宗の仏壇は引き取りたくないという意識なのでしょう。
そのためお母さんの持っていた仏壇が宙に浮いてしまったので、長女である自分がしかたなく引き取ってお祀りしようと思うのだが、仏壇が二つになったら不幸になると聞いたというわけです。
そこで質問の手紙を寄せてきたのですが、わたしは次のようなことを返事として書いてやりました。
「ばかなことを言いなさんな。
あなたは原因と結果をあべこべにしているんです。
仏壇が二つになったから不幸になるんじやない。
不幸になったから仏壇が二つになるんです。
あなたは不幸になった。
なぜなら、お母さんが死んで仏壇が宙に浮いてしまった。
これを弟が引き取れば幸せにいくものを、弟が引き取らないので不幸になった。
だから仏壇が二つになるんでしょう。
ではどうしたらいいか。その仏壇を捨ててしまいなさい。
仏壇を二つにするなんてとんでもない。
毎日二つの仏壇を拝むたびに、南無阿弥陀仏、あの弟さえ引き取ってくれればよかったのに、あの子のせいで不幸になったと毎日恨みを増幅するだけです。
弟だって二つもあれば迷惑なのだから、あなたが引き取って処分してしまいなさい。
お寺に頼めば、お焚き上げ・性根抜きといって、仏壇から魂を抜いてちゃんと始末してくれます。
そして問題の仏壇が消えれば、自然に忘れます。
昔あんなことがあったなと、ちらっと思い出す程度で済むはずです。
毎日憎しみをかきたてるようなことはしてはいけません」
だから、仏壇なんてなければなくていいんです。
イスラム教徒のように、神仏は宇宙にまんべんなく偏在していると信じて、どこにいてもちゃんと拝めるという態度が大事なのです。
仏壇がなければ拝めないというのは、よほどレベルが低いと思ったほうがいいでしょう。
だからといって、あってはいけないというのではありません。
あってもいいんですが、とらわれてはいけないというのです。
わたしのところにだって仏壇はあります。
わたしは長男で、まだ母が大阪で生きていますから、わが家の仏壇は大阪にあるわけです。
母親とけんかをするたびに、
「じゃあ、ぼくは長男なんだから仏壇を東京に持って帰り、向こうでお祀りするから」
と言ってやるんですが、そうすると母は泣き出し、
「仏壇がないと寂しいから置いておいてくれ」
と言います。
そんなことでわたしのところには長いこと仏壇がなかったのですが、わたしは心の中にほとけさまがいるんだからそのほとけさまを拝めばいいんだと思っていました。
しかし、実は今度引っ越しまして、それを機会に仏像を買ってきて安置しました。
そして、朝と夜にお勤めしています。仏像が一体置いてあって、水に浮くろうそくと花とお線香を供え、朝は『般若心経』、夜は法然上人のおことばである『一枚起請文』を妻と二人で称えています。
ちょっと離れたところにはお地蔵さんが置いてあり、これもまた拝んでいます。